葬式を考える
昨日のブログで自宅の向かい側に住んでいるジイさんがなくなったことを書きましたが、改めて、いづれ自分にも訪れる”最後の時”、
自分自身の「葬式」についての在り方などをブログに綴ってみたいと思います。
通夜や葬式
正直、自分には葬式に来てもらうような偲んでもらうような間柄の知人は皆無である。
なので、葬式や通夜を実施することは自分にとって「無駄な愚行」と思っています。意味が無い。
御先祖の法事などに参加してみても、
現社会にまで続いている寺請制度は「本当に必要なのか?」と思っています。
最近は規模の小さい葬式に段々と切り替わってきたかなと感じるし、
もう派手な葬式を開催するなんてことは今後廃れていくと思います。
というか葬式自体が無くっていきそうかな?
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い
葬式や法事は、
どう考えても”寺(坊主)を維持させる(潤す)為にやっているとしか思えない行事・風習”であると思います。
まだ教養や地域のしがらみなどが浸透していなかった時代、
地域のルールや協力関係、思想や文化などを教える役割的に「寺」が存在していたのは理解出来るけれど(寺請制度)、
現社会において上記の事柄はまだ必要なのか?と思うと必ずしも必要とは言えないと思っている。
「供養の為」「極楽浄土に行くため」なんてボウズ連中は言うけど、実際に”そのような世界”は存在してないわけだし、単なる幻想。
究極に考えると地球なんて塵とガスと岩で形成された物体、たまたまそこに生命が産まれて存在するようになったわけである。
”神が作った”とか”仏に祈れば救われる”なんてモノは単なる思想の先導、
そうゆう実態が現代の”生臭坊主”を形成し、
彼岸やお盆などという文化を利用し金銭を巻き上げているようにしかない思えない。
坊主嫌い
近年のボウズどもは本当に調子に乗っている輩が多いと感じる、
とにかく態度がでかい、あと傲慢、
檀家を保持している寺なんて詐欺レベルに無駄なお布施を要求してくる始末、
強固だった檀家システムも世代交代で薄れ始めてきているようだし、
いまは檀家なんてものに所属しなくても、
葬儀屋に専属しているボウズがいるので檀家は無くても大丈夫である。
我が家の檀家のボウズは本当に意地汚いからね、
まさに坊主憎けりゃ袈裟まで憎いです。
自分が亡くなったら、
安い棺桶にぶち込んでもらって、
直で火葬場で焼いてもらって、
遺骨は砂状に細かく砕いて庭の片隅に撒いてくれれば良いと考えています。
※遺骨は産業廃棄物扱いになるので要注意!
葬儀費用なんて無駄、
その金で残された人に美味い御馳走等に使用してもらった方がマシです。
豪華な墓なんていらんよ、小さい石でも置いてもらえば本望です。
なまじ立派な墓なんてものを作ってしまったら、
残された人に維持や管理で迷惑かけ続けるわけだし、
死んだ人間がいつまでも残った方々に迷惑を掛け続けるのは忍びない...
いまは樹木葬が注目されているのかな?
専門墓地にて管理しているところであれば、
先に述べた遺骨=産業廃棄物もクリア出来そうですし、
なにより墓石が必要ないのも良いと思います。
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